info: Yasuo Horiuchi -baritone-

『オペラ珍道中』1/3

2026年01月02日 10:48

24年前にWEB雑誌に寄稿した拙文エッセイ『オペラ珍道中』が、ネット上から消滅していました。稚拙で恥ずかしいのですが、夢と希望に満ちていた時の記録として、本欄に残して置きたく思いました。(考え方や生き方は、当時からは変貌しましたが。。)



NO.1珍道中を始めるにあたって

皆さん、はじめまして。バリトン歌手の堀内康雄と申します。

ここのHPに、突然コラムを書くようになったのには、ちょっとした訳があります。僕がパソコンを買ったのは今年の2月。以前から、大学の先輩連中から「オメ~、パソコンぐらい買えや」と購入を勧められていましたが、おいそれと手の出る金額でもなかった為、有り難いアドバイスを無視していました。それから2年も経った今年の1月、新国立劇場の「イル・トロヴァトーレ」で御一緒した指揮者ダニエル・オーレン氏に「これが俺のメール・アドレスだ。さっさとパソコンを買ってメールしてみろ。」と言われました。"これは、良い話かもしれない。良い仕事につながるかも・・"と大いに期待してノートパソコンを買ったっていう訳です。その後、何回か氏とメールのやりとりをしましたが、大いなる期待と希望に反して、今は殆ど音信不通状態です。それよりも予想以上に夢中になったのが、ネット・サーフィンでした。ホヤの紫蘇漬けを食べる→ホヤのサイトを見る。シノーポリが死去する→シノーポリ関係を調べる。クーペルがインテルの監督になる→インテルのサイトを開く。ギーガーや日比野克彦、草間弥生のページを見る・・とそれにリンクも加わり、いわば立派なネット中毒者になった訳です。問題なのは2ヶ月に一回ぐらいの割合で、操作が出来なくなる等のトラブルに見舞われるようになり、その度に修理の相談はすべてこのサイト、 あもーれ・みぃお を維持されている酒井さんに任せっぱなしになりました。

だいぶ慣れたこの9月、ヴェネツィア・フェニーチェ座の「3つのオレンジへの恋」に出演の為、1ヶ月に亘るヴェネツィアでのアパート暮らしの最終日にまた"真っ暗で動かない"状態となりました。僕も正に目の前真っ暗状態で、ただちに救世主・酒井さんに連絡をすると、「修理ついででなんだけれど、実はパソコンのトラブル解決と交換に前々から頼みたかった事があるんだ。 オペラ好きの人やオペラを知らない人の為に、 あもーれ・みぃお に何か書いてくれないか?」と意外な提案を戴きました。

1度は躊躇したものの、以前、北海道新聞にフルーティストの工藤重典氏、ピアニストの館野泉氏と田部京子女史という大先輩の方々に混じって「つれづれカルテット」というコラムを書いた経験もあり、お引き受けした次第です。

「つれづれカルテット」では推敲に推敲を重ねて,随分と気張って書きましたが、これから始める「オペラ珍道中」は、気の向くまま自由に、オペラ出演にまつわる話や,思い出話,また時に書くネタが無くなった場合は脱線話をして,この1年を楽しんで行きたいというのが抱負であります。皆さんも珍道中に迷い込んでみては如何でしょうか?珍道中に巻き込まれて,オペラを見てみたいという人が、一人でも増えたら,非常に嬉しく思います。それでは,皆さん風邪に気をつけて。道中長いですから。2001年11月吉日

*道しるべ*

11月3日(土) びわ湖ホール 「アッティラ」 エツィオ役

11月11日(日) TEATRO COCCIA DI NOVARA 「ナブッコ」 ナブッコ役



NO.2 3つのオレンジへの恋

皆さん、お元気ですか?師走のお忙しい折,如何お過ごしですか?

今年は,イタリアの大作曲家ジュゼッペ・ヴェルディ先生が亡くなって、早いもので100年目の記念年でした。僕も例年に比べて仕事が多かった訳で,それらの話は,先生に感謝しつつ、来年に先送りするとして、今月は、ヴェネツィア・フェニーチェ座(再建中のためマリブラン劇場)の「3つのオレンジへの恋」という奇想天外なオペラに出演の巻です。

・・・後継ぎの王子が憂鬱病。笑わないと病気が治らないという事で、王は笑える宴会を催すが失敗。宴会芸と関係なくすっ転んだ魔女を見た王子は大爆笑。逆に「3つのオレンジに恋をする」という呪いをかけられ、さぁ大変。呪いにより、王子はオレンジを探しにクレオンタ城へと旅立ちます。城でオレンジの番をする恐ろしい料理女(必殺技は,でかいスプーンで相手の頭をかち割る)を魔法のリボンでかわし、3つのオレンジのひとつから出て来たニネッタ姫とめでたく結ばれる・・・という大変シュールなお話です。

まずプロコフィエフ作曲の音楽が才気立っていて素晴らしいです。行進曲が最も有名ですが,王子が笑い始め、全員が大爆笑するあたりが御機嫌な音楽です。ニネッタ姫の旋律も大変魅力的。また料理女は,視覚的に女ですが,ドスの効いたバス歌手が歌うので、なかなか滑稽で、作曲家の才覚の一面に触れる事が出来ます。

僕が演じたのはファルファレッロ役です。風を起こして王子をクレオンタ城へと吹き飛ばす悪魔です。フェニーチェ座のHPに、この役の衣装デザインが載っていましたが,実際には映画「1941」でジョン・ベルーシが扮した特攻隊に近いものでした。衣装はビックリ箱をひっくり返したとでも形容したいほど強烈な個性揃いで、普段イタリア・オペラに関わっている僕には、大変新鮮な驚きでした。歌う部分は5分程度で,久方ぶりに楽をさせて貰いましたが,かなり動き回る演出で,とんでもない所から登場し、王子を吹き飛ばすのに舞台を2往復。めでたい事に2KG痩せました。映画「未来世紀ブラジル」でのロバート・デ・ニーロみたいに出来たら良いなぁ(あの演技,素晴らしかったですね。)と工夫していましたが、楽屋を訪れて下さった朝日新聞社の方々に「随分と,ひょうきんで可愛い感じの役でしたねぇ」とコメントを戴き,僕の思惑とは違った結果に終わった事が判りました。所詮こんなものですが、初対面の彼女達から好評を頂戴し、内心、海苔のようにニコニコでした。

今回の製作には歌手12カ国(イギリス人,スイス人,ポーランド人,ロシア人,ドイツ人,オーストリア人,ユーゴスラヴィア人,イタリア人,アルゼンチン人,アメリカ人,ルーマニア人,日本人)・演出家フランス人・指揮者ブラジル人が携わり、正にこのオペラに相応しい混沌としたものでした。基本的にはイタリア語での稽古でしたが,いつの間にか英語やフランス語やドイツ語に変換していき、イタリア語しか分からない僕には,正にクレオンタ城に迷い込んだ感じがしたものです。

94年3月・7月の「ボエーム」,97年4月の「リゴレット」、そして今回「3つのオレンジへの恋」と,全く偶然ですが,フェニーチェ座では4年毎に仕事している事になります。(ヴェネツィアでは、合計134日のアパート暮らし・3演目4役・19公演となりました。)焼失前のフェニーチェ座は,まるでストラディヴァリウスのような響き,しかも照明がついた時は、眩いばかりの壮麗さでした。仮設のパラフェニーチェは,ただのサーカスのテント小屋といえる代物でした。今回のマリブラン劇場は900席の可愛いホールですが、フェニーチェ座が、元通り再建されるまで頑張って欲しいものです。この巡り合わせだと,また4年後の2005年にヴェネツィアに戻れるかなぁと期待しているところです。

尚,アメリカでのテロ事件の3日後に行われた「3つのオレンジへの恋」の初日は,舞台監督の場内アナウンスにより、開演前1分間の黙祷を犠牲者の方々に捧げた事をお伝えします。

2001年12月吉日



NO.3 オペラ初体験 / 修禅寺物語

新年明けまして、おめでとうございます。

本年も皆様にとりまして、良き1年と成ります事をお祈りいたします。

昨年は物騒なニュースが多く、全く嫌な世の中になってしまいました。お互い与えられた人生の時間を有意義に過ごしたいものですね。

さて、年末から新年にかけての飲み過ぎにより、珍道中、息切れしております。

今月は、しばし昔を振り返り、僕が初めてオペラに、足を突っ込んだ頃のことをお話したいと思います。

それは遠い昔々、僕がまだ食品の営業マンをしていた頃に、オペラ出演という夢のような話が舞い込んできたのでありました。その少し前から、札幌市の新人演奏会といった同地の若手演奏家にとって登竜門と言えるコンサートには出演済みで、いっぱしの声楽家気取りでいたものです。ある時は営業マンに、そしてまたある時は声楽家に・・・と"二束のわらじ"の人生を決め込んでいた時期でした。随分と面白い奴がいるものだと多少話題になり、また師匠の推薦の威力もあって北海道二期会の「修禅寺物語」に、ゲスト出演の運びとなったのでした。嬉しさのあまり会社内にも大々的に宣伝してしまい、「何を考えているんだコイツは?」と、社内のブラック・リストに入り始めた時期でもありました・・・

「修禅寺物語」は面造りの名匠である伊豆の夜叉王を中心に、源頼家の史実を絡めた岡本綺堂の新歌舞伎に、清水脩が作曲した邦人オペラの傑作です。日本人の血にぐっと来る音楽の雄弁さ、特に頼家と桂の二重唱は、日本語の美しさを堪能できます。僕は行親という刺客を演じました。端役ながら、初舞台という事で勤務中にも、稽古に足しげく通ったものです。会社のロゴの入った営業車で、オペラの稽古に通い詰めるのは一種の快感でした(罪悪感を感じなかったのは僕が不良社員だった事を証明しているのでしょう)。

歌詞を考えると演技が出来ない+演技を考えると歌詞が出てこない・・といった硬直状態で、演出の長沼広光先生には、こっぴどく絞られました。「武士の座り方になっとらん」という事で、毎回座り方を15分ぐらいやらされました。やり過ぎで、夜中にふくらはぎが攣って、長沼演出を恨んだものです。それでもオペラ制作に参加している嬉しさは、かけがえの無いものでした。

公演は、主役の方々の熱唱と札幌交響楽団の好演により大成功でした。一夜明けても興奮が一向に冷めず、次の演目も声を掛けてくれるだろうか?と営業ノルマよりもオペラ活動の方が、気になる毎日となりました。オペラ歌手が生業となった今でも、あのオペラ初体験のインパクトは忘れられません。出来れば20年後にでも機会があったら、オペラ初体験を思い出しつつ、夜叉王にチャレンジしてみたいです。

瀕死のわが娘の介抱もせず、その死に顔のデッサンに夢中になるこの父親は、難役ですね。芸術至上主義も、こうなると常軌を逸していますよ。同じ娘が死ぬのでも、リゴレットとは訳が違います。 ・・怖い職人です(寒)

2002年1月吉日

*道しるべ*

1月3日(木) NHKホール  NHKニューイヤーオペラコンサート (NHK教育テレビ:生放送)

1月11日(金) オーチャードホール 「椿姫」 ジェルモン役

1月13日(日) 同上



NO.4 2001年ヴェルディの旅 / ナブッコ編

皆さん、お変わりございませんか?ミラノは、連日スモッグ警報・注意報の連発で、何とも憂鬱であります。それでも、珍道中は前進しなきゃなりません。

今回は、NO.2"3つのオレンジへの恋"の巻で予告しておりましたヴェルディのオペラ出演について、お話しましょう。

去年2001年は、イタリア・オペラ最大の作曲家ジュゼッペ・ヴェルディの没後100年にあたり、世界各地で記念公演が数多く行われました。僕のような若輩者にも、例年とは打って変わった様に仕事の依頼があり、ヴェルディ先生には感謝している次第です。

1月新国立劇場「イル・トロヴァトーレ」、3月カリアリ市立劇場「ナブッコ」(レオ・ヌッチ氏のカバー歌手:いわゆるベンチ入りです。)、5月新国立劇場「仮面舞踏会」、7月ブッセート市・ヴェルディ没後100年祭「ナブッコ」、11月びわ湖ホール「アッティラ」、ノヴァーラ・コッチャ劇場「ナブッコ」、12月新国立劇場「ドン・カルロ」、先月は藤原歌劇団「椿姫」という出演状況でした。

映画「2001年宇宙の旅」というキューブリックの大傑作がありますが、僕にとって去年は正に「2001年ヴェルディの旅」でした。映画は確か、最後に赤ん坊になってしまいますが、僕は頭の中がヴェルディ(緑色)になり、イタリアの国歌を聴いても、"ドリフターズ全員集合"の音楽を聴いても(ミラノには骨董価値のビデオ貸出し店有り)、ヴェルディに聴こえてしまって大変でした。

長旅を終えた今、クセナキスの「ペルセポリス」や、フランク・ザッパの「イエロー・シャーク」、バリ島のガムラン音楽「ゴン・クビャール」なんかを聴いて、ブレイン・ストーミングをしています。(脳がシェイクされて良い感じです。。。)

全世界のオペラ・ファンが、ヴェルディを敬愛してやまないのは、その流麗な旋律美と血沸き肉踊るリズム感、劇的な高揚感、心理表現の巧妙さにあるのではないかと思います。僕も勿論それに同感ですが、バリトンに美味しい役を与えてくれた事が何より「先生、わかってくれますねぇ!」と涙ぐんでしまう訳です。その分、演じる時のプレッシャーは唯ならず、尻込み半分、やる気半分で取り組んだ事もありました。

昨夏、ヴェルディの生地ブッセートでの没後100年祭「ナブッコ」への出演依頼は、身に余る名誉なオファーで、「没後100年という節目に、ヴェルディの生地で主演し、しかもヴェルディ詣でが出来る」という誘惑にとりつかれ、一にも二にもOKした訳です。ナブッコ役は、97年にスペインで2回歌い、大変難しかった記憶を拭い去れなかったのですが、3月サルデーニャ島の州都カリアリで、大バリトン歌手のレオ・ヌッチ氏が来るまで(ゲネプロの前日まで)、約1ヶ月間、稽古をする経験が出来、少しばかり自信がついた事が、再びナブッコ役を引き受ける引き金となりました。

・・・バビロニアの王ナブッコは暴政をしき、「わしは王ではない、もはや神なのだ。」と宣言し、神の怒りに触れて稲妻の一撃を頭に浴びます。急激に老い狂ったナブッコは逆境の後、ユダヤの神に許しを請い、ユダヤの神を尊ぶ事を布告する・・・暴君としての1・2幕、老狂の3幕、祈りから本来の人間の善性を取り戻す4幕と大変であります。ブッセートでは、新世紀を意識したのか、キューブリックの影響か、宇宙空間的な舞台装置の下、伝統的な演出が施されました。仮設野外劇場の為、舞台上にあるマイクに頼るという厄介なものでしたが、お客さんの反応は上々でホッとしました。

公演の翌日、ヴェルディが通い詰めたという由緒あるサルメリーア(生ハム・ソーセージ屋)で、店内に流れるヴェルディの音楽を聴きながら、しっとりと輝く生ハム類にがっつき、赤ワインをどんぶり(グラスで無いのが、この店の流儀)で、何杯もおかわり。酩酊状態でブッセートを一回り散策し、"ヴェルディの夜気"で酔い覚まししたのが、何とも心地良かったです。最終日には、日本ヴェルディ協会の方々16名が聴きに来られ、公演後の深夜には、彼らとまた同じ店で赤ワインをどんぶりで・・・。最高に良い気分の100年祭となりました。

2002年2月吉日。



NO.5 ラ・ボエーム:僕の青春のオペラ

日本は花粉症の春でしょうか?

今月は「ラ・ボエーム」のお話です。先日、楽譜を収納している本棚を整理していたところ、リコルディ版の「ラ・ボエーム」に黴が生えていて、日光に当てなければ・・と再び楽譜をペラペラと繰って見ると、様々な思い出が浮かんできた訳です。

生活費にも困っていた留学3年目、何とかコンクールの賞金で食いつなぎ、このオペラによって、僕はヴェネツィア・フェニーチェ座で職業歌手としてデビューしました。その後、再び真夏のヴェネツィア、ピアノ伴奏でやった演奏会形式のゲンメ、紅葉真っ盛りの札幌、ミレッラ・フレーニさんやニコライ・ギャウロフ氏と共演した藤原歌劇団公演と出演を重ねました。思えば僕のキャリアの節目に、あるいは個人的な人生のちょっとした転機に、いつもこのオペラをやって来た気がします。そういう巡り会いって、どんな歌手にもあるのかも知れません。つまり、曲に対する思い入れとは別に、いつもむこうからやって来るというか、そこで待っているというか。。。

・・・詩人ロドルフォ・画家マルチェッロ・哲学者コッリーネ・音楽家ショナールの4人の若者達は、パリの屋根裏部屋に同居している。各々、志は高いが貧乏この上ない。物語はロドルフォとお針子ミミの悲恋を中心に、対照的なカップルであるマルチェッロとムゼッタの恋模様がシンクロする。最終幕、重い肺病を患うミミは、別れていたロドルフォを訪ねる。ミミの不在で物思いに沈みがちなロドルフォであったが、彼女の只ならぬ容態に愕然とする。若者達は各々、ミミを助けようと知恵を絞って奔走するが、時すでに遅し。ミミは、マフを持ちながら息を引き取る。若者達の絶望とロドルフォの号泣のうちに幕。

・・・第1幕ロドルフォの"冷たき手"やミミの"私の名はミミ"、第2幕ムゼッタのワルツ、第3幕の四重唱、第4幕コッリーネの"外套の歌"など、正に珠玉の名曲の数々。最終幕のクライマックスでは、誰でも一度ぐらい劇場で泣いた経験があるのではないでしょうか?バリトンのマルチェッロとショナールには、アリアらしきものは無く、大変不公平に感じますが、それぞれ絶妙に性格描写が描き分けられていて、どちらを演じても満足します。

コンクールに優勝しても、鳴かず飛ばずだった留学3年目、"1年の計は元旦にあり"にならって、元旦にミラノ中央郵便局にイタリア中の劇場宛に手紙を投函しました。内容は、オーディションをして、自分をオペラに出演させて欲しいというものです。5つほどの劇場から返事が来ましたが、オーディションを受けてみても結果は芳しくありませんでした。そんな中で、フェニーチェ座のシチリアーニ監督が、若い歌手を使った「ラ・ボエーム」を自分の劇場で上演しようとしていました。手紙が功を奏したのか、運良くアポイントをもらった僕は、ショナール役を希望してオーディションを受けました。マルチェッロ役は強豪が集まると踏んだからです。

蓋を開けてみるとショナール役にも20名程のバリトンが名を連ねていて、しかも自分の所属する音楽事務所のキレイな女性マネージャーまで同伴している奴らもいました。正直言って大変気後れしましたが、「なに負けるものか」と、応援団張りの気合でショナール登場の歌をがなり上げました。オーディション直後に、「あなたは、今までにオペラに出演した事がありますか?」の質問。僕は迷わず答えました。「もちろん。日本で"修禅寺物語"と言うオペラに出演してますよ。」このハッタリが効いたのか、後日電報によって合格の知らせを受けたのです(なぜ、電報なのか?その頃我が家には、FAXもE-MAILも無かったのです)。

数ヵ月後、喜び勇んで劇場に赴くと、まずフェニーチェ座内部の壮麗な美しさに見とれてしまいました。しかしハードだった稽古では、ほとんど若葉マーク状態の僕が、皆の足を引っ張るばかりで、意気消沈の日が続きました。何とか本番では、同僚の援護にも助けられ、無事にデビューを飾る事が出来ました。同じ舞台を踏んだロドルフォ役のマルコ・ベルティは今でも大悪友の一人、またマルチェッロ役のジョヴァンニ・メオーニには個人的に、色々と歌のテクニックを教わって、それによって今日の僕がある気がしています。いまだに彼らとの絆をどこかで感じるのは「ラ・ボエーム」というオペラのなせる技なのでしょうか。すごくショックなのは、ミミ役だった韓国人のヘイ・オク・ムーンさんが、2年程前、大変若くして癌で他界された事です。容姿も可愛らしかった彼女の澄み切った美しい声は、シチリアーニ監督のお気に入りでした。二人で、サン・マルコ広場を散策中に「私は大きなキャリアを作るんだ!」って張り切っていた姿が、目に焼きついています。彼女だったら、本当にその夢を実現しただろうなぁって、大変残念に感じます。私生活も聞くところから推察すると、本当にミミみたいな人生だったんじゃないかと可愛そうに思います。心よりご冥福をお祈りするばかりです。

ところでマルチェッロ役も、これまた思い出たっぷりの役ですが、それについてはまたいつか機会があれば、お話したいと考えています。"道中ギャラリー"には、マルチェッロの舞台写真を載せておきました。

2002年3月吉日



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